量子力学・心の解釈

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量子力学が肉眼で見える世界観を根底からひっくり返す!~心の解釈の重要性~




現実社会に生きていると、不安や絶望、行き詰まりを感じることが多いですが、その多くは、西洋的な価値観、つまり頭で考えることによる悩みに由来しています。

ここでは、その従来の固定化された常識の枠を超えて、一歩踏み込んだ物の見方をしていきます。

人間という存在は、それぞれが固有の「場」を持ったエネルギー体であり、バラバラに分離された存在ではない、ということを最近の物理学は発見しました。

これは、「他との関係が縁となって生起すること。自己を含む一切の存在は縁起によって成立しており,それ自身の実体は存在しない」という仏教的な縁起の思想と非常によく似ています。

では、どうして、あなたが考えこんで悩んでしまうのか、少し哲学的な切り口から見ていきましょう。

デカルト以降の西洋哲学とその思想 精神と身体の分離

デカルト以来、西洋哲学やその思想は、精神と身体を切り離してきました。

この分断は,身体を機械として研究することを可能にし、西洋医学は劇的な進歩を遂げ、物質世界についての様々な発見をもたらしましたが、精神は切り離されたままになっています。

顕微鏡の発見は,身体が電気化学的に動かされる機械であるという理論を支持し,科学者が病理的な状態や疾患を細胞の単位で突きとめることを可能にしています。

現在においても、西洋医学は、身体を機械的な各部分の個々の性質によって行動が決定される合理的な有機体と見なす傾向があり、各々の部位によって診療科が分かれています。

ところが、心身医学を実践している現代のフロイト派の精神科医は,身体は部分の総和であるという考えを反転させることに多くの貢献を果たしました。

その後に発展した深層心理学は、身体の本質を各部位の総和以上である全体と見なし,精神の信じ込みやストレスといった、非物質的な問題を病気の原因の一つとして捉えたのです。

特に、部分は全体によってコントロールされるという概念をも打ち立てました。

ところが、西洋の心身医学は基本的には部位の症状を中心に注目しています。

まるで、精神は、身体における病気の進行において制御可能な因子として研究されています。

つまり、ストレスが原因であっても、身体に発生した不具合は克服すべき症状として捉えられているのです。

西洋医学と同じように,現代物理学は、最近までギリシャやキリスト数的な思考に支配されてきました。

幾何学的な空間で動く機械的な対象としてのアリストテレスによる物質の概念が、2000年間に渡って、物理学の発展を妨げてきたとアインシュタインは述べています。

20世紀の物理学の研究は、相対性理論や量子力学の登場によって、幾何学的な空間と物質というギリシャの概念を否定することになったのです。

最新の心理学の研究では、人間がより自分らしく生きるのであれば,自らを包み込むエネルギー体(一定の構造と流れと方向性を持った場)に対する自覚が増すので,生命力はより活性化していくと強調しています。

オーラや生体磁場は色彩豊かで強くなり、これまで悩ませてきた厄介な問題は人生の味方になってくれます。

完全な人間とは,ただその人らしく生きている人のことです。

寝ている間に見る夢のイメージは、心の中だけでなく、身体や人生の営みを含めた深層心理(無意識・意識全体の99%を占める・健在意識は1%)を反映しています。

また、人間の「一定の構造と流れと方向性を持った場」=深層心理(無意識)は、夢だけでなく、身体の動きや症状、意味のある偶然の一致や思いがけない出来事として現われます。

いずれにせよ、「一定の構造と流れと方向性を持った場」は、精神と身体・物質の中間領域を揺れ動くものとなります。

シンプルに表現すれば、身体は、内なる神々に気づいていない潜在的なパワーを秘めた聖なる神殿のようなものです。

現実の身体は「一定の構造と流れと方向性を持った場」=深層心理(無意識)を自我に統合させることによって、その人らしさが現われ、生命力が輝き始めるのです。

心のレベルにおいても、量子波動的な性質が生命(健康・人生)の現われ方として自覚され、認知されることになります。

東洋の各宗教における身体観 身体は心の救済(悟り)のためのツールである

東洋の思想である仏教やヒンズー教,ジャイナ教では古来より、人間の身体は心の救済(悟り)に到達する手段として重要な役割を担います。

東洋では,身体の限界を超越して心の救済(悟り)を達成するために,身体を変容させることが目的とされています。

特に、東洋のヒンドゥー教では、痛み、疼きなどの症状を単純に悪いもの扱いせず、聖なる女神シャクティの顕現であり、自己実現を象徴するシヴァ神との合一の原動力となると考えられています。

東洋における,永遠の存在としての自分自身という体験に関する重要な要素は、心の救済(悟り)の完成が身体に働きかけることによって生じ得るということです。

西洋の宗教 人間の意志が及ばぬ霊によって身体が生気を与えられると考える

それに対して、西洋の思想であるユダヤ教やキリスト教では、身体は個性化において間接的なものにすぎず、ほとんど重要視されませんでした。

とは言え、ユダヤ教やキリスト教を深く読み込んでいくと、人間は心身統一体としてこの世に生まれるが、死に際して心と身体が離れ離れとなって霊と再会し、心と身体は来世でのみ再び巡り合うことが記されています。

死後に霊と再会するとされる身体についての西洋の宗教的イメージは,「栄光の身体」あるいは「復活の身体」と呼ばれます。

例えば、キリストの復活は、一度は死んだはずのイエスの身体が霊によって命を吹き込まれ、生気を与えられたと描き出されています。

イエス・キリストのようにオーラや後光に包まれて輝く場合,それはキリスト教における「一定の構造と流れと方向性を持った場」の特徴的なイメージだと言えます。

つまり、キリスト教・旧約聖書では、

身体=霊によって命を吹き込まれ、生気を与えられるもの

であり、

西洋の宗教論では,基本的に身体は問題のある厄介者のように扱われます。

そのため,キリストの復活という神秘的な「栄光の身体」は、人間の意志が及ばない霊による生気の注入によってしか、達成されることが出来ないのです。

西洋では、主に勤勉に働くことによって,そして最近では人間的な成長とアイデンティティの確立によって永遠性を産みだし、天国に到達しようと試みます。

西洋化された現代社会は、人間の物質的安全と肉体的健康への強迫的な先入観の原因となっています。

それは、まるで人生の第10段階に駆け込むために、第1段階から第9段階を飛ばしてしまうようなものです。

もし身体が「自分とは何か」という心の認識と統合されなければ,人間は身体の健康を強迫的に追い求めるようになります。

身体に関する自覚(観察による体験)のない心理学的な成長は,根のない木のようなものです。

東洋的な心と身体を同時に探求する方法は、量子物理学の観測者問題と類似

身体が観察の性質によって左右されるという事実は、量子物理学が発展した当時の理論物理学を思い起こさせます。

20紀の初めには、西洋科学を少なくとも200年間支配してきた古典物理学は,この現実世界を原因が見出されれば出来事が予測できる機械として捉えていました。

全ての出来事は、日常的体験の見地から理解されるある種の機械論によって支配されていたのです

例えば,分子や原子は、壁に当たって跳ね返る野球のボールのようなものとしてイメージされ、因果論的法則のみに従っていると考えられていました。

ところが、電子などの素粒子の厳密な測定によって,古典物理学の機械論的な概念には重大な誤りがあるということが実証されました。

電子顕微鏡を通した物質の世界は、古典的な時空間にとらわれた観察者の視点からすると、気まぐれに動いているように目に映ります。

どこに電子が移動するかを実証しようとする実験を行うことによって、電子が移動する時に発生するパターンは大きく乱れて、予測不能になってしまうのです。

ハイゼンベルグの「波動方程式」「不確定性原理」という新しい世界の見方

そこで、ハイゼンベルグ・ニールス・ボーア・シュレーディンガーといった新しい現象に対して柔軟な物理学者達は、「波動方程式」と呼ばれる公式を提示しました。

ところが、与えられた原因が予測できる結果を生じさせる、という古典的な世界観に感情的にしがみついていた旧来の物理学者達は、波動方程式が「どこに電子が移動するのか」という一見基本的と思われる問いに答えを出せなかったことから、それは正しいはずがないと反論しました。

その後、十分な検証を重ねることで、ハイゼンベルグは、最終的に「不確定性原理」という学説を公式化することで「波動方程式」の有効性を主張しました。

彼は、ある問いかけが実験を通じて確かめられない場合は、その問いは答える必要がないと回答したのです。

つまり、ハイゼンベルグの学説は、電子の移動する位置を特定するといった古典的な問いかけは、実験すること自体が電子の自由な流れを確実に乱してしまうため、意味がないと考えたのです。

このように、量子力学は、観察するという行為が観測する対象の結果に影響を与える=量子の動きに決定的な役割を果たすという斬新な発想を生み出しました。

このことは、素粒子の塊である人間自身(あるいは人生全般)にももちろん当てはまります。

量子力学は、あらゆる観察が少なくとも

1. 特別な変数を測定するための特定の器具の選択

2. 観察自体に使われるエネルギー

という二つの側面において出来事に影響を及ぼすことを明らかにしました。

加えて、まだ現代物理学には含まれていませんが、波動の特性から言って

3.実験時の観測者の精神的な状態(観測者の心や身体の具合)

もやがて取り入れられる日が来ることになるでしょう。

古典物理学にとっては、素粒子の諸現象は、理解することのできない想像を絶するものです。

それらは機械論的な説明が不可能であり、肉眼で見ることのできる日常的な体験の原因と結果の見地からは理解できません。

素粒子の場所を一箇所に断定できないという限界を明確にした量子物理学

素粒子の動きは,波動方程式によって数学的に公式化できるだけなのです。

数式で回答を得ることは正確にはなされ得ません。

数学的な回答、そして数学的な解釈は、肉眼で見ることのできる世界の日常的な体験とはほとんど関係がないのです。

例えば、一つの電子は小さな丸い球体としてはもはや描写され得ません。

何故なら、ある瞬間における電子の境界がどこにあるかということを、正確に知ることは不可能だからです。

これは、個々の人間というエネルギー体あるいは人間の心、想い、意識にも当てはめることが出来ます。

ブーツストラップ理論は、仏教の「縁起」思想の教えと同じである

1970年代、当時新しく登場した物理学のブーツストラップ理論は、「自然は、個々の素粒子のような実在には還元できず、構成要素がお互いに調和を保っているからこそ存在する」と提唱しました。

以降、物理学者は、絶対的な物理の基本法則などなく、発見する全ての学説が意識の産物であると信じる人々が急増しました。

人間の日常で言えば、「心の在り方、心の解釈」こそが大きな鍵を握っている、ということです。

そして、独りよがりの「自分だけ良ければよい」「自分さえ成功すれば他人のことはどうでも良い」という発想は、自然の法則から大きく外れている、ということになります。

西洋の近代的思考とその文化スタイルに疑問を投げかけた量子力学の世界観

量子力学は

1.西洋的思考の矛盾や亀裂を再構築すること

2.人間の思考の起源を捉え直すこと

を迫っています。

物理学者は、完全に統一された絶対的な法則の理論を求めてきましたが、上手く行きませんでした。

物質の粒子が空間の中の小さな個々の球体であるとは見なされないのと同じように、現実の身体というものも、絶対的な概念とは見なさない方が良いでしょう。

量子力学以前の古典物理的な観点では、肉眼では捉えられない「一定の構造と流れと方向性を持った場」を身体の中に見ることは不可能です。

つまり、人間の心や身体の健康あるいは病気・症状について、プログラム化されたコンピュータのように画一的な定義で無理やり当てはめることは出来ないのです。

病気や症状とは、ニュートン物理学的・デカルト的機械論的世界観の考え方であり、西洋の近代文化に属する定義でしかありません。

その発想では、その病気や症状に秘められた天に与えられた使命、霊的な贈り物、才能、ギフトに気付くことが出来ないのです。

「一定の構造と流れと方向性を持った場」にとっては、物質世界や現実の身体という近代的な枠組みの考え方は,抑圧と不幸を生み出す心的構造でしかありません。

心理学にとって,物理学の物質に対する古典的な見方あるいは量子的な見方は、自我の体験と、自我による体験の投影だと断定できます。

「一定の構造と流れと方向性を持った場」を認識しない人は、自分の存在を外的な状況の渦中にある粒子として、また病気に悩まされる身体として体験します。

そして、現実の身体は、自我の恐れや堅さ、頑固さによって作り出されてしまいます。

しかし、「一定の構造と流れと方向性を持った場」に対する感受性が豊かな人は,自分自身を「エネルギー的な存在」として体験し、何の損得や駆引きもなく、今ここに生きる喜びを体感し、疲れを知らずに踊り続けることも可能なのです。

デカルト的な日常的意識の観点だけでは、「一定の構造と流れと方向性を持った場」は現実から逸脱し、それを脅かすゆらめく幻のようなエネルギー(空想・ファンタジー)のように感じられます。

実際的に心もしくは身体の体験をしなければ、机上の空論に思えてしまうのです。

東洋と西洋の違いで分かる通り、それぞれの地域の思想や文化は、心(意識)が身体の特定の部位に固定化してしまうことがあることを示しています。

西洋思想に偏った人達は「思考中心」であり,第3チャクラの「アジナ・チャクラ」に束縛され、頭でっかちになりがちです。

すると、自我の独り言と無意識の止むことのない思考の流れによってコントロールされていることにほとんど気づかずに、心と身体を自ら作り上げた観念で操作しようとします。

しかし、それでは、心も身体も病んでいくか、機能不全になる一方です。

心理学に従事する人が、心に抑圧されているものを掘り起こし、それを特定し、理解することに専念しているのは、こうした事情があるからです。

人間は、人生を自らの手で操縦する者のように感じていますが、同時に時間や偶発的な出来事に駆り立てられる体験をしています。

つまり、実際には、自我の方が無意識の中に流れている思考やイメージに振り回されているのです。

こうした社会適応のための自我を徐々に手放していく、あるいは瞑想・ヨガ・呼吸法など心の探求を通じて、身体と向き合っていくことは、「人生を駄目にする心の習慣」「身体の症状の奥に潜む潜在的な才能」に気付くきっかけとなります。

今、苦しんでいたり、悩んでいることがあるならば、少し違った目線で、そのことを捉え直してみましょう。

考えたこと、感じたことに「正しい、間違い」は関係ありません。

でも、意識を向けた方向、心が解釈した方向に人生は必ず運ばれていきます。

C・G・ユングがアフリカに渡航した時、祖霊信仰やシャーマニズムを重んじるコミュニティの酋長は、「西洋人は何事も頭で冷徹に考え、行動しようとする。はっきりいって狂気としか思えない」という言葉をユングに伝えています。

帝国主義時代真っ盛りのの先進諸国が、植民地化によって後進国から領土を奪い、自国に富と利益をもたらすことばかりを優先していた時期です。

ユングが、「では、あなた方は、どこで物事を考えるのですか?」とたずねたところ、すぐに、アフリカの酋長は自らの胸を指して、「わたしたちはここ(ハート・チャクラ)で考える」と答えました。

ホピ族などのネイティブ・アメリカン、オーストラリアのアボリジニなども同じような感性を持っています。

ハート・チャクラは愛の源泉です。頭でっかちになってしまうと、強迫観念と妄想に付きまとわれ、愛とはかけ離れた「痛み」「恐れ・不安」「苦しみ」をベースに考えてしまう傾向があります。

しかし、ハート・チャクラには、愛というフィルターを通した「快か不快か」という識別能力が備わっています。

もうそろそろ、追い立てられるように生きる現代人が、忘れ去ってしまった本来の感性を取り戻さなければならないと思います。

海洋汚染・地球温暖化・環境破壊・格差拡大による人心の荒廃など、現代文明は便利だけれども問題だらけです。

これも機械論的なものの見方が根底にあり、「自然とは征服すべきものだ」というフランシス・ベーコン(西洋の哲学者)の思想を受け継いだことに問題の核心が存在しているのです。



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